「J-one」姉妹誌「ナマステ・ボリウッド」コラム(2011.4.23)より転載。
「ナマステ・ボリウッド」では、本年3月11日に発生した東日本大震災の復興支援として当面縮小発行とし、これまでのランニング・コストから浮いた部分を支援物資に充て、岩手県釜石市の物産センター「シープラザ釜石」に設置された災害本部へ届けて参りました。
ナマステ・ボリウッド主宰 すぎたカズト
「のぞみ」に掛けて
食料品・菓子・青汁・野菜ジュース・ビタミン剤・歯ブラシ・歯磨き・衛生用品(使い捨てタオル・ハンドジェル・ウェットティッシュ)・カイロ・マスク・ゴミ袋・フリーザーバッグ・軍手・ビニール手袋・スチロール容器・爪切り・綿棒等を買い占めにならないように少しづつ買い集め、旧編集部のあった藤野町(現相模原市緑区)の有志から提供してもらった衛生用品・文具・子供服等を加え、10数箱を編集部の「dard-e-disco」号に積み込み、4月8日(金)の深夜0時、中央道・相模湖I.Cより一路、岩手へと向かった。
前日7日23時32分、本誌28号の入稿を目指して編集後記に震災へのメッセージを書いていたその時、阪神淡路大震災(兵庫県南部地震)のM7.3を上回るM7.4の余震が発生、東北道下り線は仙台の先から通行止めとなっており、復旧開通が為されるかどうか、という状況であった。週末からまた冷え込むというので、その前に物資を届けたい。
空が白んだ頃、福島県境に差し掛かり、いよいよ震災エリアが間近に。iPodからプリティー・ズィンター主演、父アヌパム・ケールが娘を深く愛する「Kya Kehna!(なんと言っても!)」(2000)の主題歌が流れ、カヴィター・クリシュナムールティーの歌声と歌詞に胸を打たれる。
心に春が訪れ愛が芽生える、なんと言おうか
顔が揃うと幸せが湧く、なんと言おうか
庭に花咲く我が家は、なんと言っても素晴らしい

釜石市内に表示された「津波浸水想定区域」の標識。この先に釜石駅も商店街もあった。
有り難いことに東北道は復旧していた。週末のETCと救援車両で混雑していたものの、岩手県へ入ると車両、道路標識やサービスエリアがぐっと減り、今も尚「奥の細道」であることを感じさせる。パーキングへ寄ると、7日の余震による影響でトイレは断水している。トイレットペーパーが便器に詰まった状態であるが、20年ほど前のカトマンドゥー・トリブヴァン国際空港に比べれば、じゅうぶん綺麗な方だ。間もなく道路公団のトラックがやって来、<手酌の水洗>用ドラム缶を設置し始めた。こういう事態では、やはり南アジア式が威力を発揮する。
路面の状況にも震災の破壊力が見てとれた。道路は走りやすい易いようフラットに作られるものだが、地番沈下からところどころ下がっており、車体がバウンドしてしまう。
水沢I.Cを下りたのが午前11時半。約550kmを仮眠や休憩を含め12時間弱。時速45kmの計算になる。壊滅状態を映し出したテレビ報道とは異なり、一般道に下りて広がる田園風景は平時と変わらない。M9.0(*a)という巨大地震ながら木造家屋を倒壊させるキラーパルスがなかったこともあり、道路沿いに建つ古民家やバラックと言ってもよさそうな納屋なども傾くことなく建っている。

釜石市から大槌町、山田町へと向かう国道45号の風景。右にある「OK」は解体希望の表示。
岩手の土を踏むのは、ワールドトレードセンターが炎上する衝撃の映像を見た9.11(*b)の翌年以来。今回、これほどまでに心が駆られたのは、ナマステ・ボリウッドのサイトを立ち上げた当初、福島県と岩手県に在住していたこともあるが、大阪アジアン映画祭での「Kites」カイト(2010)上映に合わせて3月10日から西日本へ取材仕事を組み安全地帯へ「逃避」してせいだ。数日前から前震が続き、どこか予感めいたものがあったが、東北から遠く離れた北九州でそのニュースを知ろうとは。ちょうどその日の午前中、アジアフォーカス・福岡国際映画祭事務局を訪ね、「3 Idiots」3バカに乾杯!(2009)にからめて、インドでは停電が多く、家々ではプロパンガスだけでなく灯油コンロを使った不便な生活をしているが、その分、生活の智恵が湧く。日本は携帯電話が圏外になるだけで…などと話していたのだった。
さすがにその晩はホテルで一睡も出来ず、テレビとネットにかぶりついていた。震源地が内陸へ飛び、未明には長野/新潟の県境でM6.7、誤報となったが早朝には神奈川が震源地として緊急警報が発令された。東京都町田市郊外でも量販店のスロープが崩れるなどその破壊劇は凄まじく、まるで東日本が次々と攻撃を受け沈没してしまいそうな勢いには、少年期の70年代に風靡した「日本沈没」や「ノストラダムスの大予言」がフラッシュバックする。
12日予定していた大阪でのオフ会はキャンセル。懸念していた東海道新幹線「のぞみ」の席がとれ、余震が続く関東へと戻った。まさに「のぞみ」に掛ける想いであったが、まさか原発までが爆発しようとは…。
もう被災地はご覧になりましたか
ナマステ・ボリウッドの縮小発行は、11日の晩時点で決めていた。これまで全国のインド・レストランや関係者への発送料などはまるきり赤字で補填しながら続けてきたが、この国難と言える状況では、さすがに赤字を垂れ流してはいられない。公告収入で収まる発行規模に圧縮し、浮いたコストで東北支援に役立てようと思い至った。義援金の募金だけでは十分には思えず、自ら物資を届けることにする。だが、何を? どうやって?
ぜひとも届けたく思ったのは布団の下に敷く断熱材だ。避難所となった体育館や公民館の床は冷える。旧編集部で使っていた住宅用のポリスチレン製断熱材スタイロフォームが10畳分手元にあり、これを活かさない手はない。いち早く届けられなかったのが残念でならないが、30mm厚の寒冷地仕様であるから4月の半ばまで朝晩冷え込む岩手では重宝するだろう。

青空の下、山田線両石駅の鉄橋に押し流された家が挟まっている。
ネットで避難所リストを調べてみると、10名ほどの被災者が寄り添っている小振りな避難所が数多くあり、これなら小規模な援助でもフィットしそうであった。東北道が復旧し、一般車も通行可能となった頃、壊滅した海岸部へのボランティア支援基地となっている内陸の事務局に電話を入れてみると、発生から3週間近く経つというのにまだ毛布や布団が足りないという。今期はスタッドレス・タイヤを履かないで済ませていたこと、本誌や原稿仕事の〆切りから結局、物資を届けるのが4月上旬に食い込んでしまった。忸怩たる思いで原稿の合間に断熱材のサイズを合わせるべく3尺四方のベニヤ板に張り付け、養生シートで覆う。それらを作り終えたのが出発の数時間前。なるべく多くの物資を詰めるよう、単独で出かける。
途中、問い合わせした事務局に立ち寄る。市内にある小学校の校庭には自衛隊が駐屯し、医療センターには激突してフロントが潰れた救急車が駐められており、平時でない緊張感が伝わる。だが、事務局の対応は予想通りであった。この一週間で全国から物資が山のように届き、すでに「余っている」状態だという。この事務局がアマゾンの配送センターのように機能し、各避難所から要望が上がった段階ではじめて配達されるのだそうだ。この週末、冷え込む前に断熱材を手渡したく思ったが、ここに預けてはそれは叶わない。調べてあった釜石の避難所へと向かう。報じられているように、避難所へ個人からの直接持ち込みは受け付けてはくれないのは解っていたが。

破壊された釜石商店街。復興するには一旦すべてを解体し、新たに建造する他ない、
ガソリンスタンドに並ぶクルマの長い列を除き、一見、地震の影響など感じられない釜井市街を進んでゆくと、驚いたことに「これより先、津波浸水想定地域」との標識が目に入る。なんと釜石駅はその先、釜石港から1km程度しかない。間もなく津波の押し寄せた跡が見られ始め、次第に凶悪なまでに酷くなり、巨大な処分場のような風景が続く。アスファルトの道路には釘ひとつ落ちていない日常のまわりに家々が双六のサイコロように転がり、ハリウッド製ディザスター・ムーヴィーのオープン・セットか終末世界のテーマパークに迷い込んだようで実感が湧かない。

壊滅状態の両石駅前。ここで出会った人の指さす先には何もない。
海沿いに幾つか避難所があったはずだが、電話を入れても応答がない。港に面した国道45号をの陸橋を上りトンネルを抜け、両石地区へと向かう。高台に公民館らしき建物が目に入り、瓦礫の中へと折れる。途中、歩いていた男性に尋ねてみると、数日前に小規模な避難所は閉鎖され、皆、大人数を収容する避難所へ集められたとのことであった。「私も被災して避難所にいました。家はほら、あそこにあったんです」と、その人が指さす先には何もない。一段上の家は綺麗に残っているというのに。避難所生活が堪えたのか、今は仮住まいをみつけたという。ただ、避難所を出る時、使っていた毛布一枚もらえず、「あれほど悔しいことはなかった」と奥さんは言った。運んできた野菜や品々はなかなか受け取ってもらえなかったが、ビタミン剤やカイロがあると伝えるとさすがに安堵の表情が浮かんだ。
そして、釜石駅の隣にある物産センター「シープラザ釜石」が釜石市の災害対策本部となり被災者向けに救援物資が配布されていると聞き、そこへ持ち込むことにする。受付をして段ボール箱を下ろすと(お菓子などはその場ですぐに配布してくれた)、ボランティアの青年がひと言。
「もう被災地はご覧になりましたか」
ああ、ここの人たちはこの惨状を見て知ってもらいたいのだ。
未曾有の人災、生殺しの福島へ
翌10日は岩手県をひと回りし福島県へと向かう。東北道上り線は盛岡から不通となっていたが、これまた迅速な作業により復旧していた。ところどころ裂けたアスファルトの補修箇所が痛々しい。
郡山に着いたのが夜8時。自発的に支援活動をしている友人宅を訪ねると(本震当日は、家族でディズニーランドへ出かけていたが、園内のホテル宿泊者のみ「区別」され屋内避難が許されたそうだ)、本震でアパートが半壊した知人が一時避難で住み込みしていた。
牧歌的な復興の姿がおぼろげながら思い浮かべられる岩手と違い、地震・津波・放射能汚染・風評と四重苦を抱えた福島は出口の見えない生殺し状態にあった。世界中から「秩序を乱さない」と讃えられた日本人だが、さすがに放射能パニックが加わったせいか、郡山ではガソリン不足の折りにはスタンドに連なった長蛇の列で明け方に乱闘騒ぎがあったり、また車内待機していた人が救急車で運ばれたのも何度となくあったようだ。さらにトイレットペーパーや水、食料品などの買い占めが横行し、買い物をしてバイクで走っているとクルマに強引に止められ、商品の買い上げを強要されるなど略奪寸前まで緊張が高まっていたそうだ。報道では須賀川に住む自然農を営んでいた男性が自殺とあったが、それ以外にも離農を決めた農家が多く、また反原発派であった前知事が汚職で追放された事件も当初から語られていた裏工作説が再燃していた…。
10日の午後からまたも余震は活発化となった。11日は70回、5弱以上の揺れが4回、しかも17時台には浜通り(海寄りの福島県東部)震源の6弱(M7.1)と5弱(M6)が連続して、9分置いて5弱(M5.6)が発生。雨天ということもあって、いわき市内では土砂崩れが発生。天候は荒れ模様で、浜通りでは風雨・雷注意報、会津地方(福島県西部)では雪崩警報が飛び交い無茶苦茶な状況だ。余震でさえこの有り様だから、停電が続いた本震直後の数日はかなりのストレスとなったことであろう。私自身、クルマで走り続けた振動も手伝って、常に揺れているように思えたものだ。
郡山では多くの建物が躯体に影響を受け立ち入り禁止の状態にあり、ここ数日の余震で友人の住むマンションもヒビが増え、余震の度に外壁を見てまわっていた。さらに宿泊した晩もひと晩中余震が続いた事から、なんとトイレのシリンダー錠がロックされてしまったほど。天災から人災へと変えた東電と政府首脳部の愚策への苛立ちに加え、このような日常の些細な追い打ちが出口の見えない心理にダメージを与えるなど、さながらパンチドランカーのようだ。
そして私自身、ここで思わぬ「一時避難」を体験することとなる。と言うのも、2日間で1600km以上を走り、山道でブレーキを酷使したせいか、福島県内をまわっての帰路300kmはもたないだろうという判断から馴染みのショップに依頼し神奈川から牽引車を派遣してもらうこととなった。「郡山」と伝えても即座に対応してくれたことに友人たちも喜んだ。ただ、翌日まで「屋内待避」である。地元でガイガー・カウンターを持っている人の話ではテレビなどで発表される数値は「桁がひとつ足りない」とのことで、しかもその日に国際原子力事象評価尺度がレベル7に修正されたのだ。これまで「大した影響はありません」と繰り返していた大本営発表とは裏腹に、事故直後には37京ないし63京ベクレル以上と言われるトンデモない数値の放射性物質が飛散しているのだ。それでもこの日、郡山市は小中学校の始業式が行われた…。
ふんばれ日本! 奇跡の復興へ
岩手に入ったその晩、遠野にある道の駅で車中泊をした。4月上旬にしてマイナス2℃ほどまで冷え、午前3時ともなると目が覚める。避難所で使って欲しいと願って運んできた断熱材は結局受け付けてもらえず、車中に残ったまま。そのために寝るスペースが作れず、運転席とセンターコンソールの上に無理矢理横になる。

両石駅前に残された鉄骨。ねじ曲がった姿が津波の破壊力を物語っている。
災害ボランティア活動の窓口となっている社会福祉協議会(社協)は、テレビなどでは「民間」と報じられているが、一年を通して老人介護や障害者支援を地道に行う行政側に位置する組織だ。数多い避難所を統括するにあたって様々なルールを取り決めるのは「社会」として必然であろう。今回、持参した断熱材が受け付けてもらえなかったのは、すでに春先に向かっていること、わずか10名ほどしかカバー出来ない分量であること、避難所生活が終了した時に廃棄物となること、など、検品時の職員も苦渋の判断をしたことがその表情から読み取れた。こちらとしては、老人や病氣の人に優先して使ってもらえればと思い、使用後は仮設住宅の断熱材として利用できる、との読みがあったが、大人数の被災者を面で支えるような行政側の支援の中では扱いにくい「規格外」と映ったのだった。小振りでも役立てることを何かしたいと思う人が全国に数多くいることだろう。これら「規格外」の支援を実をあるものにするには、やはりもう一歩踏み込み、伝える努力をする他あるまい。
一方、日本経済と世界の未来へ多大な損害をもたらした人災の極みである原発事故から、「インドのヒロシマ」と呼ばれる、1984年にマディヤ・プラデーシュ州で起きたボーパール化学工場事故(*c) を思い出さずにはいられない。K・K・メノン主演「Bhopal Express」(1999)として映画化されたこの大事故は、死者3万人、負傷者15~30万人を数える。この米ユニオン・カーバイドの殺虫剤工場は科学者の警告を無視し膨大な量のMIC(イソシアン酸メチル)を貯蔵。事故当時、工場は殺虫剤の売り上げ低下から操業停止に陥り、コスト削減のために老朽化したステンレスのパイプを安価な鉄製の物で済ますなど杜撰な管理が毒ガス漏れの事故を招いた。貯蔵に際して摂氏零度に保つ必要があったタンクの構造など原発に通じる物を感じる。この事故も人災と呼ばれるが、元を正せば、同じ耕地面積で収穫が1.6倍に増やせる品種改良の麦ソノーラ63へと行き着く。改良品種故に生命力が貧弱な種で、耕作を続けるには大量の化学肥料と殺虫剤を必要とした。1.6倍という人間にとって都合の良い収益ばかりに目を引かれがちだが、負のコスト増大を考えると相殺される以上の代価を支払うこととなるのだ。
これまで原発は「安全」で「低コスト」、「環境にやさしい」と謳われてきたが、今回、国際的には日本は史上最悪4700テラベクレルの放射性汚染水放出により「環境テロ国家」とされ、海外特派員やフリーのジャーナリストを排除した情報統制は北朝鮮並みと映っており、「風評」被害の輸入規制による国内企業へのダメージは計り知れない。すでに放射能汚染を警戒してイベント来日をキャンセルする海外アーティストが多い中、政治意識の強いハリウッド俳優など日本で開催される国際映画祭へ「抗議」を理由に参加見合わせが予想される。その反発は捕鯨以上となろう。これだけお粗末な事故処理で恥の上塗りを全世界に垂れ流し報道されては、先進技術国家として海外への売り込みは逆風どこか「日本」ブランドは地に落ちたと言えよう。いかに原発が国益を損なったか、解ろうというものだ。昨年から歌舞伎、相撲と既得権の上にあぐらをかいた旧弊な世界が改革を迫られているが、原発政策を推し進めてきた政治・官僚・大手メディア・財界も意識を解体し膿を出し切る必要がある。
すでに国内すべての原発がなくとも電力供給は賄えるとの声に加え、環境省も風力発電で原発40基分の発電が可能と試算を出している。500km以上の海岸線を襲った未曾有の天災、東日本大震災の衝撃は世界中の人々にも伝わり、またこの列島に住む日本人をも大きく問い直すこととなった。「頑張れ日本」、「頑張ろう日本」などというキャッチ・コピーをよく見かけるが、遠野で見かけた手書きのスローガン「ふんばれ日本!」が一番しっくりしているように思う。どのような未来を築いてゆくか、ひとりひとりが真剣に考えなければならない。まさにこれからが正念場だ。
と、同時に哀しく思うのは、これほどの自然の驚異によって脆くも人力で積み重ねて来た物が破壊尽くされている時に、地球を見渡せば、まだ人間同士で愚かしくも戦い合い殺し合っている国があり、方や友好と支援を表明しながらその一方で空爆を行い続け、方や医療を派遣しながらその一方で自国内では平然と難民を弾圧し続けている国もあることだ。
駆け出しライターであった25年ほど前、大地のメッセンジャーとして来日したアメリカ先住民デニス・バンクスにインタビューした時の言葉が今も忘れられない。
「何か物事を決める時、七代後のことを考えて決めて欲しい」

それでも海は美しい。
(*a)M9.0:「DAYS JAPAN」2011年5月号「暴走する原発」(文・広瀬隆)によると当初発表された気象庁マグニチュードM8.4から今回だけ別基準のモーメントマグニチュードM9.0に引き上げられた経緯は「原子力損害賠償法」による「異常に巨大な天災地変」による賠償責任を東京電力が免除されるようにとの変更。また、3月11日の東北地方太平洋沖地震は加速度が最大2933ガルであったのに対して、2008年6月14日の岩手・宮城内陸地震が4022ガルと史上最大とのこと。
(*b)9.11:2001年に起きた米国同時多発テロ事件が9.11、今回の東日本大震災が3.11、2006年にムンバイーで7つ列車が同時に狙われたムンバイ列車爆破事件が7.11、ムンバイ同時多発テロ事件が2008年11月に発生。
(*c)ボーパール化学工場事故: 詳しくは「ボーパール 午前零時五分」(ドミニク・ラピエール、ハビエル・モロ共著/長谷 泰訳/河出書房新社・上下2巻)を参照のこと。
付記)日本からの食品に輸入規制をかけていたインドで4月18日、マハーラーシュトラ州ジャイタプールの原発建設予定地での反原発デモが暴徒化し、警官が発砲。1名が死亡。これはアミターブ・バッチャンやシャー・ルク・カーンなども標的とするヒンドゥー極右政党シヴ・セーナーによる煽動。
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